Mag-log in──5日後。給料日。
仕事帰りの美亜は、コンビニでビールを買って自宅アパートに向かっている。
時刻は21時過ぎ。残業で疲れ切った美亜が歩く道は住宅街というのもあり、まだ寝るのには早い時間なのに静まり返っている。
肩に通勤カバンをかけ、手にはエコバッグ。お待ちかねの金ラベルのビールを買えたというのに、美亜の足取りはトボトボだ。
一ケ月頑張った自分を労り、来月の給料日まで頑張るために、もっとテンションを上げるべきなのに。
「……なんか違う。でも、これが現実なんだよね」
新幹線を降りて名古屋駅に降りた時、この街は眩しいほどにキラキラしていた。
高層ビルが聳え立ち、足元には都会の象徴である地下鉄が走っている。道を行き交う人たちはスーツ率が高くて、トラクターなんて一台も走っていない。
おばあちゃん、ありがとう。私、ここで頑張って生きていくね。そして誰よりも輝くキラキラ女子になるから!そう決意した美亜だったが、いきなり就職先で躓いた。
地元では黙っていればそこそこ可愛いと言われた美亜は、都会なら仕事なんて幾らでもあるし、希望する仕事に就けると高をくくっていた。
しかし元は引きこもり。加えて気持ちが空回りしたせいで、面接は目も当てられない有様だった。ことごとく不採用になったのは言うまでもない。
不採用通知を受け取るたびに、美亜は己の不甲斐なさに半分闇落ちした。布団をかぶってテレビばかり見続ける美亜を見るに見かねた兄が、派遣社員という道を進めてくれて田舎に戻らずにすんでいる。
そんな残念なスタートダッシュを切ったけれど、今の職場には満足している。派遣仲間からのアドバイスでお化粧だって上手になったし、カラーリングした髪は都会色のセミロングで、ド田舎で暮らしていたあの頃より格段にあか抜けた。
でもやっぱり何かが違う。まかり間違っても、給料日に一人寂しくコンビニでビールを買う生活を夢見ていたわけじゃない。
美亜は手に持っているマイバックに視線を落として、溜息を吐く。
「……新しい出会いとかないかなぁー」
などと呟いたのが間違いだったのだろう。背後から、聞き覚えのある声がした。
「おう、美亜。久しぶり、元気してたか?」
声の主は元彼である
元彼こと山崎圭司は、美亜が派遣社員に落ち着くまで働いていた居酒屋のバイト仲間だった。
圭司はミュージシャン志望で、万年金欠。でも語る夢は一丁前。キラキラ女子を夢見るド田舎出身の美亜が、絆されてしまったのは仕方が無かったことではあるが、一生の汚点である。
しかもこの男、別れてからも金を無心する最低な人種だった。
「お、ビールじゃん。ってことは給料日だろ?」
「……そ、そんなの、あんたに教える必要なくない?」
「もったいぶるなよ。お前、金ラベルは給料日にしか飲まないって言ってたじゃん。やりぃ、ラッキー!あのさぁ──」
「貸すお金なんてありません。それより、貸したお金返して」
すっぱりと美亜が遮れば、圭司は露骨にムッとした顔になる。
「はぁ?貸した??馬鹿言うなよ。アレは俺に対する投資だろ?ケチ臭いこと言ってんじゃねえよ。それに俺は貸してくれなんて一言も言ってないぞ。お前が勝手に札を押し付けたんじゃん」
「なっ……!?」
あまりの言葉に、美亜は目くじらを立てた。盗人猛々しいとはまさにこのこと。唖然とする美亜に、圭司はニタリと笑いかける。
「美亜さぁ、貴方の夢は私の夢だって言ってたよな?アレ嘘だったわけ?そんなわけないよなぁ。一生俺の一番のファンでいるって言ってたよな?今更ナシはないよな?ってことで、とりあえず3万くれ」
「は?」
黒歴史を語られた挙句、最終的に強請られて、美亜は恥ずかしさを通り越して死にたい気持ちになった。
一先ず周囲に人がいないか確認する。幸い通行人はゼロ。恥をかかなくて済んだことにホッとしつつ、うんざりした表情を浮かべた。
「3万くれって馬鹿なの?冗談じゃないわよっ。確かに世間知らずの私は、あんたを応援してたけど、それは過去の話。口先だけの男に、もう情なんてないわよ。さっさと消えて」
「は?俺、ライブやってるじゃん」
「来客が会場の半分にも満たないのは、ライブとは言えません」
「ふざけんなっ。それは他のメンバーが悪いんだよっ」
「相変わらず責任転嫁するのね。あんたのギターが下手なのが、最大の要因でしょ!?ってか、いい加減、コード覚えたの?」
「知ったようなこというなよ!あのなぁ、ギターは感性で弾くんだから、コードなんて覚える必要ないんだよっ」
「それアルファベット覚えなくても、完成で英文書けるって言ってるのと同じ。基礎できていないのに、偉そうなこと言わないで。そんなことより、これまで貸したお金返して」
「だぁーかぁーらぁー、あれはお前が勝手にくれたやつだろっ」
「あげてないわよ!」
もういい。本当に馬鹿馬鹿しい。こんな奴に構っていられない。そもそも返済なんて期待してなかった。
こんな不毛な言い争いより、冷たいビールを選んだ美亜は、青筋を立てたまま歩き出す。しかし五歩足を進めた時、
「おいっ、とにかくお前は黙って金出せばいいんだよ」
耳を疑う台詞とともに、通勤カバンを取り上げられてしまった。その中には当然財布がある。
「ちょっと返してよ!」
「うるせぇ!」
バックから財布を取り出した圭司は、当然のように札を抜こうとする。こんな最低な男に、汗水たらして稼いだ給料を誰が渡すものか。
「おめぇこそ、うるさいっ!はたくぞ!!」
封印していた方言を丸出しにした美亜は体当たりをして財布を取り返すと、そのまま全力疾走する。
人通りの無いアスファルト通りに、サンダルのパタパタ音が響く。遅れて追いかけてくるスニーカーの音は圭司のもの。
「おい待てよ!」
臨時収入を逃すまいと、圭司はがむしゃらに追いかけてくる。
山育ちの美亜は脚力には自信がある。それなのに引き離すことができないなんて、すごい執念だ。美亜は少し悩んで裏路地に入る。
民家の細道を、何が悲しくて給料日に元彼と逃走劇を繰り広げないといけないのか。こんなのキラキラ女子がすることじゃない。
テレビドラマのようにイケメンに追われて口説かれるならまだしも、捕まったら最後、財布の札が消える状況に、美亜は足を止めずに涙を浮かべた。
そうしていても、まだ圭司は追ってくる。本当にしつこい。
「おい止まれって!家賃払わないと俺、アパート追い出されるんだよ!頼むから金くれよ!」
背後から叫ぶ声に、美亜は知ったことかと心の中で悪態を吐く。
もううんざりだ。そう言われて何度も家賃を肩代わりした過去の自分が憎らしい。あと友達と言っておきながら、圭司を寝取ったあの女も憎らしい。
たしか加奈って言ったっけ。初対面で「あー名前に”美”が付く人って大概美人じゃないんですよねぇー。あ、美亜さん”美”がつくんですかぁー?マジうける」と言ってくれた失礼女。全然、ウケないよ。
などと美亜の思考が脱線した瞬間、空気が変わった。
いや、美亜を取り巻く空気だけじゃない。視界も音も全てが遮断された真っ黒な
得も言われぬ不気味な感覚に、美亜がひゅっと喉を鳴らしたのは一瞬だった。
すぐにパチッと電気を付けるように、車の行きかう音と、ポツポツと寂しげな民家の明かりが視界に映る。
時間にして数秒。でも不思議な感覚は、今なお生々しく体に残っている。恐る恐る胸に手を当てれば、心臓が今にも壊れそうなほどバクバクしている。
「……酸欠で失神しかけたの?……私」
きっとそうだ。そうに違いない。ここは都会だ。田舎じゃないから、科学で証明できないことは起こらないはず。
そう自分に言い聞かせながら後ろを振り返れば、圭司の姿はどこにもなかった。あんなに近くにいたのに。
「諦めて……くれた……?」
違和感はあるが深く考えないでおこうと決めた美亜は、鳥肌が立った二の腕をこすりながら、大通りへと速足で歩き出す。
しかし、あと少しといったところで、美亜は足を止めた。民家の陰に身を隠す若い男がいたのだ。
圭司ではないその人は、平安衣装姿にピンとした耳。背中のあたりにはモフモフ尻尾が4本、ふぁーさふぁーさと揺れている。
闇夜でもわかる表情は厄介な仕事を片付け終えて、やれやれと言いたげなもの。5日前にベランダ越しに目が合った狐人で間違いない。そしてその顔は、派遣先の上司である指宿と瓜二つだった。
上司は狐だった。なんていう有り得ない現実を受け入れることができない美亜は、彼の趣味はコスプレなんだと結論付ける。きっと間近に迫ったハロウィンに向けて、予行練習でもしているのだろう。
明らかに無理がある推測だが、狐狸妖怪がいる職場で働いている現実よりはまだマシかと結論を出し、指宿にペコっとお辞儀をすると何事もなかったかのように歩き出した。
ただすれ違う際に、うっかりこう呟いてしまった。
「課長、ハッピーハロウィン」
美亜が歩く前方では、指宿と東野が声を落として込み入った話をしている。「──っていうことでさぁ、院長もそっち系の人を色々呼んで視てもらったんだけど、さっぱりなんだよねー。でもやっぱ、なんかおかしいことは起こってるし」「死亡者は?」「今んところはないねー。危なかったのは3人。今は一般病棟に移ったけど。あ、そういえば、院長の毛が更に薄くなった」「なるほど。そうなると地縛霊ではなく、流動的な奴か。おっさんの毛はおそらく関係ない。育毛専門家に相談しろ」「そっかぁ。院長、被る系の方に興味あるから、調べてやろっと。それにしても流動的なものかぁー。なら、どっか流れてくれれば助かるんだけどぉー。居心地いいのかなぁ……ここ」「それはないだろう。お前が居るんだから」「あはは、なにそれー」 緊張感のない東野の笑いで締めくくられた会話だが、美亜は口を挟まずにはいられなかった。「あのぅ、この人は課長のこと、どれくらいご存知なんですか?」 天狐ワードを口にしていいかわからない美亜がそっと尋ねたら、指宿は「だいたい知っている」と教えてくれた。「そう……そうなんです……か」 歯切れ悪く頷く美亜の心は、ざらざらしている。 指宿が天狐だというのは、自分だけが知っている秘密だと思っていた。 もちろんパールカンパニーの守護神だから、会社の重役たちは知っているだろう。でも、プライベートで指宿の秘密を知っているのは、他にはいないと信じ切っていた。何の根拠もなかったのに。 馬鹿みたい。こんなことで、ショックを受けるなんてと美亜は苦く笑う。勘違いをしてしまった自分が実に愚かだ。 指宿と東野は、再び何か難しい話をし始めている。真剣にあれこれ意見を言い合う二人を見て、美亜は仲間外れにされた気分になり、悔しくて堪らなくなる。とはいっても、会話に入れるほどの知識なんてない。 自分の知らない指宿の横顔を見ながら、美亜はトボトボと歩き続ける。 戦前からある東野総合病院は新館と旧館があり、それらを合わせるとかなりの敷地面積になる。 今は新館だけが使われていて、旧館は物置代わりになっている。指宿たちが向かっているのは旧館で、そこに病院で起こる不可解な出来事の原因があるらしい。 ただ二人の会話を聞いていると、今日は調
白衣をはためかせながら駆け寄ってくる東野から逃げるように、美亜は指宿の背後に隠れた。「……課長、まさか今日のお仕事って、あの人も同席するんですか?」 類は友を呼ぶ。イケメンは、イケメンを引き寄せる。 そんな法則を信じているわけではないが、深夜の病院で出迎える医者の目的は一つしか思い当たらない。「課長?あの……」 何も言わない指宿に、美亜は身体を捻って見上げる。 面会時間が終わり、間引きされた蛍光灯に照らされた指宿の顔は、苦い顔をしているがやはりイケメンだ。 こちらに到着した東野も、同じくイケメンではある。でも医者のコスプレをしているホストにしか見えない。恐るべきチャラ男力。 そして東野は、更に医者の象徴である白衣を汚すような発言をした。「美亜ちゃん、この前のワンピースも可愛かったけど、今日もシックで奇麗だねー。俺の為にお洒落してきてくれて、マジ感動!」 合コンで大矢に対してキツイ物言いをしたのは記憶違いだったのかと疑うほど、東野は今日もチャラ男感が半端ない。 やはりこの人とは関わり合いたくないことを再認識した美亜は、指宿の背に隠れたまま無言を貫く。「お前、こいつと知り合いなのか?」「まさか。課長ったら違いますよー」 即答する美亜に、指宿は疑惑の目を向ける。「本当に他人ですから!あんな人、私、知りません」「向こうはそう思ってないようだが?」「それこそ知りませんよっ」 ムキになって言い返せば、指宿は何か言いたげな顔をしたがすぐに前を向く。 美亜もおずおずと顔を覗かせば、東野は傷付いた様子はなく、今度は指宿の肩をポンッと叩いた。「よっ!指宿ー。こんな可愛い子連れてムカつくな。マジムカつくな。元気だったか?今日は悪いな。あとお前が連れてくるって言ってた稀眼の子ってまさか美亜ちゃん?」 息継ぎせず一気に言い終えた東野に、指宿は「ああ」と一言だけ言った。その声は、不機嫌以外何ものでもない。「久しぶりだってのに、そんな怖い顔すんなよー。俺とお前の仲だろー?」「はっ……オレとお前の仲?冗談じゃない」「ボッチのお前と仲良くできるのは、俺だけなのに冷たいねー」 兄貴然する東野に対し、指宿は虫けらを見る目つきだ。 指宿からそんな視線をちょっとでも向けられたら、美亜なら一ヶ月は引きずるだろう。 しかし東野は、へこたれずに、ヘラヘラと
──金曜日。「こんばんは。星野です」「ああ」 オートロックが解除され、エントランスの自動扉がウィンと小さく音を立てて開く。 エレベーターまでの広いホールには、モダンなデザインのソファセットが幾つも置いてある。しかし利用者はいない。 いっそコンビニにすれば利用者が増えると思うが、一生こんな高級マンションに住めない美亜は、どうでもいいかと呟き、それで終わりにする。 エレベーターに乗って指宿の部屋の前に立てば、今日も美亜が呼び鈴を鳴らす前に玄関扉が開いた。 ダイニングに続く廊下を歩いていれば、芳醇な豆の香りが漂う。「これ飲んだらすぐ行くぞ」「はい。ありがとうございます」 ダイニングテーブルに着席したと同時に、ワイシャツ姿でコーヒーを淹れてくれた指宿に礼を言って、美亜はコートを脱ぐ。 マグカップを両手にくるんで、ふぅふぅと冷ましながら飲んだそれは、安定した美味しさだ。「美味しすぎます……。私、もう他のお店でコーヒー飲めなくなりそうです」「飲まなきゃいいだろ」「それは困ります」 身も蓋もない指宿の返しに、美亜は不満の声を上げながら眉を下げる。「嫌なら、もっと美味しい店を探すか、ここで飲め」「そんなこと言いますけど、私がコーヒーだけ飲みに来たら課長は追い返しますよね?」「当たり前だ。なんで部下の飲み物まで心配せんといけないんだ。でも」「風葉さんなら違うとか?」「……早く飲め」 おそらく正解だったのだろう。ムッとした指宿の横顔は、何だか嘘臭い。 最近気付いたことだが、指宿は仕事の仮面を外すと意外に表情豊かである。ただそれは口にしてはいけないような気がして、美亜はただニコニコしてコーヒーを啜る。 8人掛けの一枚板でできたテーブルの上には車のキーが投げ出されている。空いている椅子には上着が掛けられたまま。「課長は今日は風葉さんにならないんですか?」「戦隊モノ扱いするな。今日は俺もこのままに傍点)行く」「そうですか」 ふむと頷いた美亜は、昔テレビで見た変身ヒーローを思い出す。その流れから決めポーズを取った風葉姿の指宿が脳裏に浮かび、こらえきれず噴き出してしまった。「……生身の体で、ツインタワーのてっぺんから朝日を拝みたいようだな」 ダンッとマグカップを置いた指宿は底冷えするような鋭い目になって
寝ている間に指宿に連れてこられたのは、市内屈指の高級住宅街の中にあるセレクトショップだった。「──こちらのコートは新作で、カシミア素材なんですぅー。軽くて暖かくて、今冬で一番おすすめ商品なんですよぉー。シンプルですけど、ラインがとっても奇麗なんですぅ。それにこのブルーグレーのお色は……あ、ありがとうございますぅー」 流れるような口調で商品説明をしていた若い店員さんは、指宿が顎で買うと示した途端、ぱぁああっと笑顔になってカウンターに商品を置いた。 チラッと見えたブラウスのタグは、一か月分の食費と同じ金額だったので、美亜は笑顔になるどころか青ざめる。「か、課長、帰りましょう。今すぐ、お願いしますっ」「ああ、わかった、わかった。あと少ししたらな。……これも貰おう」「はぁーい、ありがとうございますぅー」 店員は出資者の反応しか興味がないらしく、今度はピンクベージュ色のニットのセットアップを買うと示した指宿に、揉み手をせんばかりの笑みを向ける。 指宿といえばそういう対応に慣れているようで、店員を無視して隣でオロオロしている美亜に視線を向けた。「他に欲しいのはあるか?」「あるわけないじゃないですか!それよりコートもニットも高いですっ。私、こんな高級品なんて……って、ちょっと課長!話は最後まで聞いてください……!」 店員を気にしつつ、それでも全力で要らないと主張した美亜をガン無視して、指宿はカウンターへ向かう。 なんとしても会計を阻止したい美亜は、店員とやり取りする指宿の周りをウロチョロしたが、あれよあれよと言う間に会計が終わってしまい、商品は丁寧に梱包されてしまった。「ありがとうございましたぁー」 たった20分で高額な買い物をしてくれた客に、店員は深々と頭を下げる。そして車まで戻った美亜も、膝頭に額をくっつける勢いで指宿に頭を下げた。「すみません!!」「は?何謝ってんだ、お前」「だってこんな高級品を買ってもらって……って、ま……まさかこれ後で私が払う」「馬鹿、そんなわけあるか。一ケ月頑張ったお前へのご褒美だ」 心底、呆れた声を出す指宿は、後部座席のドアを開けると大きな紙袋を席に置いて、美亜に声をかけた。「乗れ。帰るぞ」「……でも」「歩いて帰るのか?」「乗ります。失礼します」 ド田舎育ちの美亜にとって、土地勘のない場所で置いてき
指宿の冷たい返事に、美亜はしゅんと肩を落とした。「そっかぁ。課長なら、実際現場を目撃したと思ったのに……」 落胆したまま美亜は、空になった茶碗にお代わりをよそう。お櫃の残りは4分の1。お茶漬け用の薬味はネギとワサビにしようと決めて、他の薬味を全部茶碗に乗せる。 橋を持ち直したと同時に、指宿が溜息を吐きながら口を開いた。「俺はそんな野次馬じゃないし、生まれてもいない」「え、そうなんですか」 海苔だらけになったご飯に手こずりながら、美亜は目を丸くする。てっきり指宿は、もう神様業を営んでいたと思い込んでいた。 それは言葉にせずともしっかり顔に出ていたようで、指宿の眉間に皺が寄る。「お前、俺をいくつだと思ってるんだ」「くくり姫様よりは年下かと」「27だ。相棒の歳くらい覚えておけ」「……はぁ」 指宿は上司で、ボランティア活動のパートナーは風葉のはず。 そんな疑問が浮かんだけれど、ここで焼き立ての肝串が届き、美亜は食事に専念することを選んだ。「ところで食ってるところ悪いが、俺もお前に質問があるんだが」「はひ?……なんでしょう?」「何故にこのタイミングで草薙の剣が気になった?」「それは、あれが目入ったんで」 肝串を完食した美亜が指したのは店内の大きな窓。その先には住宅街から顔を覗かせる緑の神苑──「熱田さん」という名で、古くから崇敬を集める熱田神宮があった。 歴史あるここには、三種の神器の1つである草薙の剣が奉納されている。「なるほど。そういうことか」「はい。そういうことです。ちなみに課長は、草薙の剣を見たことは?」「あるわけないだろ」「……そうですか」 最後の最後まで期待を裏切る指宿の返答に、美亜はがっかり感を丸出しにして最後のひつまぶしをお茶碗によそう。 ずっと箸を付けていなかった指宿も、ここでようやくしゃもじを手に取った。「そういえば、先月の食事会は楽しかったか?」「しょ、食事会……ですか?」「ああ、行ったんだろ?定時きっかりでお前ら派遣の三人娘が走っていくのを俺は見た」「み……見たんですか。あー……見られちゃったか」 ちょっといい感じになれそうな男性と出会ったのに、元カレに良く似た医者に邪魔されたなどとどうして言えようか。「べ……別に普通です。雨降りそうだったけど、駅から近いお店で助かりまし
ボランティア活動初日は散々な目にあったけれど、それ以降は順調だった。 美亜は毎週金曜日に、指宿のマンションを訪問すると、肉体を離れた状態でボランティア活動に精を出している。 活動内容は指宿曰く、パールカンパニー限定の目に見えないアレコレのお掃除。会社に害なすものを掃除機代わりの刀で清めていく……といったもの。 美亜に与えられた役目は、ただひたすらに禍体を鳥居の外まで連行するだけの簡単な役割だ。ただし毎度命がけ。幸い、今のところヘマはしていない。 ただボランティア活動中は、上司と部下ではなくパートナー同士となるので気楽に接してくれと指宿に言われ、美亜は困った。 急に役職フリーで接しろと言われても、相手はこれまで接点皆無の上司である。加えて、美亜は引きこもりの過去を持つ。 つかず離れず、丁度良い距離を保つのは至難の業で、美亜はランティア活動中に、まぁまぁのやらかしをしてしまった。 たとえば街のいたる所で開催しているハロウィンイベントを見下ろし「風葉さん、今ならあそこに混ざってもイケますね」と冗談を言ったら、名古屋港水族館内の南極観測船の上に捨てられたり。 別の週では「平安貴族って自分のことマロって言うんですよね?ちょっと昔風に言ってみてくださいよ」とリクエストしたら、東山動植物園にある東山タワーのてっぺんに落とされたり。 懲りずに翌週、職場近くの歓楽街に狸の祠があると知り、お節介かもと思いつつも「喧嘩しちゃ駄目ですよ」と忠告したら、頭を冷やせと名古屋城の堀に投げ込まれそうになった。金のシャチホコの上で仁王立ちして手を離そうとする風葉の目は本気だった。 その翌週は、つつがなくボランティア活動を終えることができた。 それは美亜が距離感を掴めるようになったのかもしれないし、指宿が諦めてすべてを受け入れるようになったのかもしれない。詳細は不明である。*「はーい、上ひつまぶしお待たせしましたぁー」 元気なおばちゃんの声と共に、美亜と指宿の前にトレーが置かれる。 トレーの上は賑やかで、小ぶりのお櫃にお茶碗。わさびや海苔の他にネギなどの薬味が入ったお皿と、出汁茶が添えられている。「い、いただきましゅ」「……ぷっ、すまん」 緊張のあまり噛んだら、指宿に笑われた。 気恥ずかしさで、ちょっと拗ねた顔をしながら美亜はお櫃の蓋を開ける。刻まれた鰻が、ご